名称 |
信貴山城 |
所在地 |
平群町信貴畑 |
アクセス方法 |
高安山から信貴山に向かう遊歩道を進む場合、「高安城倉庫址」のところから「信貴山朝護孫子寺」に向かうルートをとると、この道は信貴山頂(空鉢堂)を経由するので、城域に入ることができる。倉庫址から30分程度である。朝護孫子寺側から登る場合は空鉢堂を目指す。麓から700m所要20分程度で階段状の登りが続く。 |
周辺の目標物 |
信貴山朝護孫子寺から登る場合は案内板にある「空鉢護法」を目指す。ここが信貴山城の本丸である。 |
登城口 |
高安山方面から来る場合は松永屋敷と呼ばれる曲輪跡を経由して山頂・本丸に至ることになる。 |
現状 |
本丸のあった山頂部分は空鉢堂(空鉢護法)等が建ち平坦面のみ確認できる。山頂北側に「松永屋敷」以下の曲輪が残るが、植林のため見通しが極めて悪い。 |
現況写真 |
山頂の平坦面。城趾碑、案内板、縄張図は一応揃っている。 |
図面等 |
案内板の全景 |
歴史 |
南北朝時代から城として使われていたようであるが、本格的な築城は、天文5年(1536)に河内の木沢長政が行ったのが最初とされる。天文11年に木沢長政が戦死した後、城は木沢氏の手を離れたが、永禄2年(1559)に三好長慶の家臣松永久秀が、大和・河内間の拠点としてこの城を拡張・整備した。松永久秀は後に三好氏を離れて将軍足利義昭に帰順して大和を安堵されるが、足利義昭と織田信長の離間に際しては信長に反したため、本拠の多聞城は奪われてこの城を本拠とすることとなった。天正5年(1577)、松永久秀は信長に背いてこの城に籠城したが、織田軍に包囲されて 10月10日に落城した。落城の際、信長は「平蜘蛛の茶釜」を渡せば助命すると伝えたが、久秀はこれを拒んで釜を抱いて爆死したという。以降、城は廃された。 |
踏査日 |
2011/10/09 |